日刊嶋根

毎日刊行する嶋根いすずのエッセイ

わたしとキスして

2024.6.1

孤独と対峙するとき、いつも首筋に指の感触を感じてた。指は首から肩をなぞって、かんたんな力でわたしの体を地面に留めた。指は冷たくて迷いがなかった。迷わずにわたしを押さえつけた。

歳を重ねるにつれて、あの指がだれのものだったのか次第に理解できるようになった。

未来のわたしはわたしの姉で、過去のわたしはわたしの妹だ。

19歳、乗り越えられないと思ったとき、未来のじぶんに向けた交換日記を開く。そして書く。

悲しいとき、わたしはたびたび姉の硬い胸に泣きついたり、泣き出せずに天井を睨んだりして、姉はそんなわたしを慰めるのか、慈しむのか、ただ静かに首をさすったり、わたしの肩や背中や腰を見つめている。

彼女はおおらかであたたかい。まだ若くて、たぶん20代前半くらいだけど、大人びて見える。同じ体なのに。
愛がまっすぐだ。
彼女にとってはもう過ぎたことで、疑う余地もないのだろう。

反対に、元気なときはわたしが妹の様子を見に行く。目を閉じて肩や背中や腰を見て、軽くさすって慰めてやるが、でもたいていわたしは妹に睨まれて相手にされない。それでもわたしは妹のことがかわいくてしかたないし、どうか元気になってほしいと思ってる。

むかしのじぶんの頬や額や唇を想像してみる。脚とかお腹とかも考える。小さくてかなしい生き物に見える。幼い娘の髪の毛を撫でる母親の気持ちってきっとこんな感じだ。他人はどうか知らないけど、わたしはきっとそう感じる。ぎゅうぎゅう抱きしめたりはできなくて、ねてるあいだの額にキスするくらいしか方法がない。

じぶんとの交換日記はそんなやりとりだ。

姉はいつもわたしを見守っている。妹はいつもひとりぼっちで泣いている。わたしはどうだろう。それぞれが孤独を感じてて、わたしも確かに独りで、わたしたちは全く地続きの存在でない。

未来のじぶんの指は、今と変わらず短く、幼いだろう。でもやさしくて、ひんやりして気持ちいい。わたしは姉の指が好きだ。姉の指は「絶対」だ。わたしも姉のようなひとになりたいと思う。いつか。

初夏を使い切らないで

初夏のことを書かなければ、書かなければ。そう思ううち、もう初夏は終わった。気付くと梅雨に入っていた。この時期は髪の毛の表面がぱやぱやと粟立つのですぐにわかる。逃したなあ、もっと新緑の写真を撮っておくんだった。

季節が一つ巡るたびに、「わたしの人生に、残りの初夏は最大であと60回くらいしかやってこない」と数える。むちゃくちゃ運がよくても70回くらいだろう。もっと早く使い切る可能性のほうが高い。つか、来年の今頃は戦争でも起きて緑は焼け野原かもしれない。季節が変わるたび、冬でも夏でも秋でもそう思う。春は嫌いなので考えない。

単純に、人生ってラッキーでもあと70年くらいしかなくて、季節がそれぞれ70回ずつしかやってこないと思うと背筋がぴりぴりする。あと70回ずつのうちにわたしは何をするんだろう。
夏にしかできないこと・冬にしかできないことは山ほどあって、あと20年もしたら体のあちこちが痛くなって、そんで……わたしは途方に暮れる。最近途方に暮れてばっかりだ!

安楽椅子に腰かけて蝉の羽を見つめたい。「安楽」という単語はすぐ「安楽死」に結びつくので、わたしは安楽椅子のことを「家の中で死に最も近付いた人が座る椅子」だと思っていた。小説の中で見る単語でしかなかった。

したたり落ちるような緑を浴びて、今年の夏はなにをするんだろう。プールに行きたい!(とくに、市民プールへ。浮き輪でぷかぷかしたあとは自販機のしょっぱいラーメンを食べる。)と思ったが、化粧が崩れるので水に濡れるわけにもいかない。

おとなになってから、濡れることが本当におそろしくなった。帰り道にめそめそ泣くことも、雨や雪をかぶって走ることも、プールにとびこむこともできなくなった。

プール、あと何回行けるかわからないのに。夏、あと何回くるかわからないのに。かわいい水着が着られるのもいまだけなのに。でもかわいい顔を濡らせない。かわいくなくなってしまうから。それに、プールに行くたった1日のために水着を買うのはもったいなすぎて手が出ない。

娯楽が星の数ほどあるこの時代で、わたしは何に時間やお金をbetするのが正解なのかわからなくなる。

友人と遊びにいくのにも「このbetは本当に有意義な経験を生むだろうか、わたしはこんなことが本当にしたいんだろうか?」ともやもや考え込んでしまう。友人から「○○しようよ!」と提案されて「うん、やろう!」と返せたことがない。わたしはそんなことにお金使いたくないよ、と思ってやんわり断るのが常である。

これは以前のわたしに金銭的余裕が無かったこと(今もあまり無い)が原因かと思っていたが、ぼちぼち働いて給料を得るようになっても「そんなことに時間使いたくないよ」と感じるだけだった。

わたしって人に興味ないんだなあ、と思った。これが食べたいとかここに行きたいとかはあれど、この人と遊びたい、この人との思い出が欲しい、みたいな気持ちにはなったことない。ひとりで眠ってるほうがいい。

安楽椅子。わたしの部屋全体が安楽椅子のようなものだ。あと何年生きるのかわからないまま、ただぐったりと深く腰かけて過ぎゆく季節を数えている。
ここは窓際。

令和に寝取られた

じぶんが生まれた前後に流行っていた歌がいちばん心惹かれるね、これはなぜなんだろうなあ、とよく考える。音楽に限らず、ひとは永遠にじぶんの幼少期を生き続けているね。(わたしは2000年代のボカロ、エロゲソング、アニソン、アイドルなどが好きだ。最近は専らave;newを聴く。)

メズマライザーを知っているか?わたしはほんの少し前まで聞いていなかった。一度ニコ動でメシマズライザーって検索したけど何も出てこなかったから、それっきりで。わたしの他にもメシマズライザーって調べちゃってる人たくさんいた。

おれは昔のボカロが好きで、昔の「暗さ」の中に生きていると思っていた。それは現世からちょっと足を離して生活することだったりした。

でもいま、メズマライザーを聴いたら、こっちのほうが肌に入ってきた。こっちのほうが肌でわかるんだ。おれは令和の若者だから、いまを生きてるから……。

だからおれが生きている・分かってると思い込んでいた「暗さ」は所詮「昔の人たちの暗さ」で、本当におれが浸っている「暗さ」は「メズマライザー」にみられるような令和6年の「暗さ」なんだった、そういうことがわかってしまったよ。「“わかる”さ」の濃度の違いをしってしまったよ。スカしてても結局こっち側?にいる。おれは若者である、と痛感する。こんなふうにあっさりと歌われてしまう。メズマライザーに限ったはなしではない。もっとこの感覚に適した曲があるだろう。

「好きではないうたに、知らないあいだにどこかで自分のことを歌われている気持ち悪さ」さえも感じる。(特定のうたを「嫌い」と言ってるわけではない。メズマライザーはリピートしている。)

わたしは確かに初音ミクより先に生まれて平成も生きたけど、そのとき若者だったわけじゃない、もっとガキだったから。あの頃のうたはわたしのために歌われていたわけではなかったんだね。あのとき初めて音楽で泣いたのに、あれはわたしのうたではなかったんだね。裏切られたかな……そんな気持ちになる。

べつに悲観的になったわけではない、
ただ、今わたしは令和の若者であり、最も「歌われる立場」にいること。嫌いな曲にもじぶんのことを歌われてしまうこと。反対に、わたしが好きな時代の曲はわたしを歌っているわけではないこと。そのときにはそのときの「歌われてる若者」がいたこと……などを、くるくると無限に想像して、途方に暮れただけなのでした。

女に教われない

2024-5-29

同性が目の前にいるだけで肋骨のあたりがちょっと固くなる(息が苦しい)。
女教師、女医、バ先の指導者が女性だった場合、など本当に最悪である。差別的な意味ではないが、できれば女には教わりたくない。男性がいい。

原因はわたしの自他境界のゆるさにあるんだろうと踏んでいる。自他境界は「自分と他者は別のものである」という認識のことで、わたしはこれがけっこう曖昧だ。とくに同性に対して曖昧だった。

男が女を怒ってるよりも女が女を怒ってる光景のほうが見ていられない。同性のとなりにいるときの、言葉や目線や息遣いにまで耳を立てられ、ねちねちと頭の中を読まれてる感じが気持ち悪い。
異性にはそんなこと思わないので、読めるわけないし読まれないと無意識に考えている。彼らとわたしは別々だ。むしろ、まったく違う言葉をはなして、まったく違うものを見て生きていると思う、それがちょっと寂しくなるくらい、わたしと異性は遠い存在である。

多少ひどいことを言われても(この人はあたしとまったく別物なんだ、一切理解できないところにいるんだ、仕方ない)と割り切れる。

異性には、余計なことを読まれずに済む安心感がある。言葉以上のことは伝わらないと思う。それは「わたしには伝えたいことを自主的に選択する権利がある」ということである。一人の人間として尊重されている……とゆうか、わたしがわたし自身を他者と切り離して尊重できるか、である。

それに対して、同性の「近さ」。異性が遠いあまり相対的に見て近く感じるだけなのかしれないが、しかしその距離感は世間全体に蔓延っていて、わたしたち同性は同じ常識を共有していると思ってしまう。きっと周りの同性もそう思っている……。その常識でわたしを迫害、する。

前にバイト先で(かなりしょうもないことで)老婆に怒られたので、わたしは喉のあたりをカッと熱くしたが、「この人はもう老いていて若い女の子の当たり前をしらないんだから、しらないだけのこの人を否定したら可哀想かな」と思って溜飲を下した。そう わからないだけだから、罪ではない。だから否定しないであげた。そういうことはたくさんある、そう思うことにする。

楽しみな予定が破壊されるとゆう予定だけを抱えて明日へ行く

2024-5-28

大雨警報でた。憂鬱で胸をごそごそさせながら歩く。楽しみな予定は大雨で流れた。
昨日のよる、へんな気分だった。2ヶ月前から心待ちにしてた予定が目の前でぶっ壊されるのに、それでも明日に行かなくてはならないんだった。

流れる、ていう言葉からいつも思い出すのは、コップいっぱいに注いだ水を地面に流して捨てようとするあなたの手首の傾き……とか それは目に見える水ではないのだが。水はわたしの言葉であった。思想であった。わたしの伝えたいことはいつも水に流された。コップというのは即ちあなたの心で、刹那だけわたしを受け容れ、すぐに流して捨てるのだった。

ほかにやることがないから、しょおがないからIKEAの白いワゴンを組み立てたり(2時間かかった)、水色の地にレモン柄のレジャーシートを買ったり(こんど、公園でしゃぼんだまをするときに使おうと思う)した。
ケンタッキーを食べた。糖分を取った。←罰。

🌷

もう、ほんと蒸し暑いよね。
わたしは肩や胸や腕が薄くぺらぺらしているので夏服を着るのが少し恥ずかしい。皮膚にもへんな模様?が入っている。痣みたいな。それを誇って見せびらかす日もある。わたし腕のここらへんにある花畑のような模様がかわいいだろう、と心の中で自慢する。

毎日毎日、部屋の鏡で見る自分の姿と出先の鏡で見る自分の姿との乖離に悩む。
ツインテール、三つ編み、編み込み、など、時間をかけて丁寧に髪を結んだときほど、マンションのロビーを出た瞬間はずかしくなってその場で解いてしまう。ルッキズム
でもきょうは三つ編みのツインテールをつくってそのまま出掛けた。解かなかったから、成長。

🌷

きのう、丸一年ぶりに会う人と、会った。会話はぷつぷつ途切れるフィルムみたいだった。目の前に誰がいようと、わたしが対話できるのはわたし自身に限られる。最中に脳内で浮かぶ単語ひとつひとつをわたしの細胞が攫って、わたし自身の血肉となる……

インターネットばくはつ後のおれたち

2024-5-27

わたしは10代、もっと言えば19歳、永遠に19歳。高校留年したかった、ともかく10代。

インターネットは10代が微塵も若くない。
見渡せば、みんなもう立派なコンテンツになっている。わたしは手遅れの10代。焦る。承認されてないていうか、消費されてないことに焦りはじめる奇妙な10代。

「みんな」もう完成しているのに自分だけ完成していない、という焦りと大きな孤独。10代は若くない。なんて惨めな。

わたしインターネットと体が繋がっている。インターネットでコンテンツを閲覧、インターネットで消費、インターネットで発信。インターネットのためにアルバイトして旅行して日記を書く。

インターネットは海。殴っても叩いても形がかわらない。自分の手だけが痛くなる。どれだけキーボードを叩いてもパソコンを閉じたら何も残らない。こわい。

この先死ぬまで囚われるのかと思うと怖くなった。触っても押し退けても泥のような手ごたえ。物体じゃないから塞げない、体の中に染みついたインターネット。コンテンツとしてのわたし。ハードディスクを叩き割れば消える。

どれだけ紙に日記を書いたとて、映像を遺したとて、着飾って写真を撮ったとて、それがなんだろう。あしたインターネットばくはつしたら、あした家燃えたら、わたしの手元には何も残らなくて、むごい。

田舎に引っ越してなにかの職人になりたいなあ。インターネットを見る暇がないくらい手を動かし続けて現実の物体と向き合いたい。そして、でもきっとSNSに写真を載せるだろう。動画を回すだろう。そうでなくとも紙に日記を書き続けるだろう。その日記を何度も何度も読み返して、自分一人のために自分をコンテンツ化してゆくだろう。

そこから逃げだす勇気がない。わたしがわたしを遺さずに年老いたとき、まったく後悔しないと言いきれない。やめる勇気がない。生活の記録に必死になることで、生み出す・学ぶ・経験する労力から逃避しているのである。

生み出せないから、誰でも持ってるものを必死に遺している。

やめたら、この偽物の充足感をすべて投げ打って、ゼロから自分と向き合うことになる。おれはおれの記録を取り続けることで自分を見つめているのではない。おれには見えていない。本当の自分は生産の過程にあるべきだと思う。と、思わされている。さて誰にか?
正しい生き方などあるわけがないと思っていながらも自分の生き方に不安を抱くのである。

おれは死ぬまでインターネットと切り離せないじぶんの肉体の在り処が怖いのか?

あるいは「インターネット爆発後」に取り柄の無い肉体ひとつで取り残されるのが怖いのか?

いざとなったら回線切ってスマホを窓から投げ捨てろ! その瞬間、アナタの自我はインターネットから切り離され、現実世界の住民となる。毒電波を通してつながっていた関係ややらかしは、すべて向こうの世界の無関係な出来事となります。


はにゃるらになってしまった
~病みのインターネット~

きょうは『僕はにゃるらになってしまった』を枕元においてよく眠ればいい。
毒電波はわたしたちの体内にこそある。が、そんなことも忘れて、わたしはこのページ(p.56)を天に掲げて涙した。

痛みだけがわたし

2024-5-26

うれしかった。どうでもいい人に傷つけられるよりも大好きな人に傷つけられたい。うれしかった、うれしかった。
傷つくたびに、この痛みがどうか永く続きますようにと思う。そしてあっさり失くして、なめらかになった胸をさする。痛みを探している。

日々にわたしの皮膚はあり、毎日誰かが爪を立てて引っ掻く程度の傷をつける。そうしてささくれた体を、たまに頭から被るくらいの絶望が包み込んでくれるときに、ようやくわたしは安堵して横になることができる。そのくらいわたしを悲しませるものは一つしかないからだ。その種だけが頼りである。

乾いた落ち葉を踏むような「ぱり、」という音がわたしの奥に聞こえた。明確に傷ついたとき、傷つきたいときにはっきり耳にする音だ。この瞬間にわたしが傷ついたことを心に留めさせる音だ。この音と共におとなになってきた。この音「だけ」がわたしをおとなにしてきた。

あなたのためにならまだなんでもできる
と思って横になった昨日の晩。

もう切れた。痛みを探している。

痛みだけがわたし。

身体だけ見ないで。そのわたしは半透明。半透明にしないで痛みを見て。一番ほしかったのは、わたしを遠く拒絶するときに「きっと傷つくだろうな」って想うこと、ただそれだけ。