日刊嶋根

毎日刊行する嶋根いすずのエッセイ

初夏を使い切らないで

初夏のことを書かなければ、書かなければ。そう思ううち、もう初夏は終わった。気付くと梅雨に入っていた。この時期は髪の毛の表面がぱやぱやと粟立つのですぐにわかる。逃したなあ、もっと新緑の写真を撮っておくんだった。

季節が一つ巡るたびに、「わたしの人生に、残りの初夏は最大であと60回くらいしかやってこない」と数える。むちゃくちゃ運がよくても70回くらいだろう。もっと早く使い切る可能性のほうが高い。つか、来年の今頃は戦争でも起きて緑は焼け野原かもしれない。季節が変わるたび、冬でも夏でも秋でもそう思う。春は嫌いなので考えない。

単純に、人生ってラッキーでもあと70年くらいしかなくて、季節がそれぞれ70回ずつしかやってこないと思うと背筋がぴりぴりする。あと70回ずつのうちにわたしは何をするんだろう。
夏にしかできないこと・冬にしかできないことは山ほどあって、あと20年もしたら体のあちこちが痛くなって、そんで……わたしは途方に暮れる。最近途方に暮れてばっかりだ!

安楽椅子に腰かけて蝉の羽を見つめたい。「安楽」という単語はすぐ「安楽死」に結びつくので、わたしは安楽椅子のことを「家の中で死に最も近付いた人が座る椅子」だと思っていた。小説の中で見る単語でしかなかった。

したたり落ちるような緑を浴びて、今年の夏はなにをするんだろう。プールに行きたい!(とくに、市民プールへ。浮き輪でぷかぷかしたあとは自販機のしょっぱいラーメンを食べる。)と思ったが、化粧が崩れるので水に濡れるわけにもいかない。

おとなになってから、濡れることが本当におそろしくなった。帰り道にめそめそ泣くことも、雨や雪をかぶって走ることも、プールにとびこむこともできなくなった。

プール、あと何回行けるかわからないのに。夏、あと何回くるかわからないのに。かわいい水着が着られるのもいまだけなのに。でもかわいい顔を濡らせない。かわいくなくなってしまうから。それに、プールに行くたった1日のために水着を買うのはもったいなすぎて手が出ない。

娯楽が星の数ほどあるこの時代で、わたしは何に時間やお金をbetするのが正解なのかわからなくなる。

友人と遊びにいくのにも「このbetは本当に有意義な経験を生むだろうか、わたしはこんなことが本当にしたいんだろうか?」ともやもや考え込んでしまう。友人から「○○しようよ!」と提案されて「うん、やろう!」と返せたことがない。わたしはそんなことにお金使いたくないよ、と思ってやんわり断るのが常である。

これは以前のわたしに金銭的余裕が無かったこと(今もあまり無い)が原因かと思っていたが、ぼちぼち働いて給料を得るようになっても「そんなことに時間使いたくないよ」と感じるだけだった。

わたしって人に興味ないんだなあ、と思った。これが食べたいとかここに行きたいとかはあれど、この人と遊びたい、この人との思い出が欲しい、みたいな気持ちにはなったことない。ひとりで眠ってるほうがいい。

安楽椅子。わたしの部屋全体が安楽椅子のようなものだ。あと何年生きるのかわからないまま、ただぐったりと深く腰かけて過ぎゆく季節を数えている。
ここは窓際。